[本] 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫 白 209-3)

商売が盛んな国や地域(オリエント・アジア・古典古代)から資本主義が生まれなかったのはなぜか。それは、資本主義精神がピューリタニズムの行動的禁欲と関係しているからである。

簡単に言い換えれば、「利潤を追求しない精神」の下に「利潤を追求する資本主義」が生まれたということ。資本主義が生まれてから資本主義精神が育まれたわけではない。資本主義に反対する精神のなかから資本主義が生まれたのである。一見すると矛盾するこの思想は、歴史的に見てそうとしか考えられない。具体的には、中世以降のキリスト教的ヨーロッパ、それから禁欲的プロテスタンティズムのあるイギリス・ネーデルランド・フランス・アメリカ。

一方、儒教や道教のある中国では、商売に対しては大いに寛容で、民衆には「商人根性」が見られる。しかし、そこから資本主義が生まれることはなかった。ヒンズー教でも仏教でも古代ユダヤ教でも同様である。

では、「禁欲」と「資本主義精神」がどのように関係しているのか。

資本主義における労働者には、「勤務時間の間は、あたかも労働が絶対的な自己目的(天職)であるかのように励む」ことが必要となる。これは人間を操作して作り出せるようなものではない。長年の宗教教育の結果’小室直樹は「予定説」がそれだと言っている。’(エートス’基本的に「倫理」と訳されるが、単なる規範的な倫理だけでなく、もはや個人の血や肉となり、ある事柄に対して「条件反射的に行動する心理」に近い。’)である。

資本家も同様に、この「天職義務」というエートスが、資本主義的な行動様式を生んでいる。これらは、「目先の欲の抑制」と言ってもよい。つまり、行動的禁欲である。このエートスが、資本主義的な利潤という結果(目的ではない)を生んでいる。

しかしその後、この行動的禁欲を外側から強制するようになってきた。そして、「天職義務」的な行動様式だけが残り、「目的としての金儲け」を倫理的に肯定するようになった。これが「資本主義精神」である。